野球観術

野球や組織論はいつだって愛情から始まる

せーの!『イッチロ~~~♪』

 

2019年3月21日、イチローと言う偉大な選手が引退した。

 

シアトルマリナーズ VS オークランドアスレティックスの試合後、イチローがグラウンドを1周して、ベンチに下がっていく姿を見て、涙が止まらなかった。

 

この試合の第三打席(最終打席は第四打席)、僕は職場のモニターでその打席を見届けることが出来た。

普段野球に携わっている人たちが全員、仕事の手を止めてモニターに視線を送っている姿、見逃し三振を喫した時の、あのため息は一生忘れることのできない瞬間であった。

 

イチロー選手との出会い◇

1995年、僕は東京都の学校から、埼玉県の学校に転校した。

阪神淡路大震災が起きて、その次の年度から新しい学校生活が始まった。

 

僕はインドア派でテレビゲームばかりやっている子供だったが、学校が変わり、キャッチボールをしたり、野球の話をする友達ができた。

 

その年は、阪神大震災の復興を胸に“がんばろうKOBE”を合言葉としてオリックスブルーウェーブ(=今のオリックスバッファローズ)が快進撃を続けていた。

当時のパ・リーグで珍しく取り上げられていたこともあって、イチローの映像は8歳の僕の心を鷲掴みにした。

この年にリーグ優勝を果たし、この翌年には日本一を達成した。

 

9歳になった僕は、親に「野球場にイチローを観に行きたい!」と珍しくせがんだのを覚えている。

当時、日本ハムが東京ドームを本拠地にしていたため、念願かなって東京ドームでイチローを観ることができた。

 

打席に立つときの

「イッチロ~~~♪」と叫ぶのがすごく楽しかった。

 

僕にとって、野球選手として子供のころに憧れた最初の選手なのだ。

 

僕はそのあと、日本ハムファイターズのファンになるが、イチローの打席の時だけはイチローを応援していたのは今でも忘れない。

メジャーに移籍してからは遠い存在になってしまったが、その存在が憧れから変わることは無かった。

 

2009年のWBC、対韓国戦@決勝。

イチローの劇的な決勝タイムリーは伝説になっているが、僕はあの時ほどイチローと同じ日本人で良かったと思うことは無かったし、これからも無いかもしれないと思う程の出来事だった。

 

メジャーに移籍し、偉業を打ち立て、遠い存在になったイチローが、日本の代表としてあれだけの感動を与えてくれたことは生涯忘れることはないだろう。

 

 

◇憧れを語ることはできない◇

イチローが憧れの存在になってから24年、イチローの記録や技術、データについて語ることはしたことが無い。

 

本当に憧れの人に対して、それについて何かを語るって、気持ち的に出来ないのだ。

 

単純にかっこいい!

ヒットをたくさん打つ、肩が強くてすごい(のちにレーザー・ビームと言われる)、背面キャッチをしたり、オールスターの時にはピッチャーもやったり、試合が中断しているときには、スタンドの子供とキャッチボールしたりと、全てがかっこよくて・・・

 

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大人なって野球に詳しくなっても、その頃の気持ちのまま!

日米通算2000本やMLB通算3000本って、言う記録も、ただかっこいいでしかないのだ。

 

どこがすごいとか、なにがすごいとか、そんなことには興味が無くて、僕が普段野球を観る感覚とは違うところにイチローと言う存在は居たような気がする。

 

◇引退会見◇

イチローは言葉を選びながらたくさんのことを話してくれた。

「何か僕、変なこと言ってます?」と度々おどけていたのは、半分は本気で半分は照れなんだと思った。

(大谷)翔平の話をしてくれた時が、一番嬉しかったし、仰木監督のことやオリックス時代のことを話してくれた時には再び目頭が熱くなった。

 

あの会見の時、久しぶりに日本に目を向けてくれたイチローが居た気がして、9歳の頃に一瞬タイムスリップできたような感じだった。

 

お疲れ様とか、ありがとう、と言うよりも、

ずっと

(せーの)『イッチロ~~~♪』

 

 

と心の中で叫びながら会見を見て子供のように眠ってしまい、イチローは僕の中で、夢の選手としてずっと心の中に刻まれることになったのだった・・・

 

 

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