僕は泣いてはない
『最初に言っておくが、僕は泣いてはない。いろんなところで「監督が泣いた」と書かれていたようだが、泣いてはない。確かに涙ぐんではいた。』
栗山英樹 著 『最高のチームの作り方』より抜粋
これは2016年の日本一になった後に書かれたもので、日本一になった時のことを監督自身が振り返っている。
涙ぐむと、泣いてはない!の違いは何なのか!?(笑)
昨日はお一人様の休日で映画を観てきた。
天 気 の 子
いろんな人から“天気の子”良いよって言われていて観に行った訳だが、
僕は栗山監督と一緒で泣き虫だから、本来そんなに泣くような映画じゃないのかもしれないけど、号泣して、目が腫れあがってしまう始末…
間違っても、「僕は泣いてはない。」とは言えない(笑)
このブログは映画の批評をするものでは無いし、映画の内容は“ネタバレ”になるので差し控えるとして、ちょっと感じたことがあったので、少しだけ・・・
この映画を観たよ!と言うと、だいたい新海誠監督の話になる。
『君の名は』との比較や、新海監督の世界観みたいな話題になるが、僕は普段から映画やアニメを観る方では無いし、初めて観た新海監督の作品で世界観がどうとかなんて語る資格なんてないと思っている。
ただ、スクリーンを通して感じる世界観はあるし、僕が好きなストーリーであったことは間違いなく言える。それはあの涙の量が正直に物語っていたと思う。
さ て さ て 本 旨 へ
僕は泣いてはない!の
栗山監督が常々、「我々は野球を通じてファンに感動を与える使命がある」と言う言葉を使う。
落合博満氏も野球の監督と映画監督の仕事には通じるものがあると『采配』の中で記している。
落合監督は「勝つことが一番のファンサービス!」と言う世界観で、様々な批判を浴びながら常勝ドラゴンズを築いた。
栗山監督はそれこそ劇場型の采配で、いろんな感動を与えてきた。
これもたくさんの人が批判していることは分かっている。
過去には大谷翔平の1番ピッチャー起用や、選手の出身地の地方球場で、先発出場させたり、少し脚本家的な要素も含みながら采配を振るっている。
それは“無形の力”が選手個人の力を引き出すと言うことにもなるが、あえて言うならばバランス感覚に欠けてしまう部分は否めない。
これは映画を観ない僕が新海監督の世界観を他の映画監督と比較できないこととは違い、野球は20年近く見ているから、微力ながらそこに批評を加えることが出来る。
監督はあくまでも中間管理職だ。
栗山監督も『未徹在』の中で、監督は中間管理職だと述べているが、やはり現場のトップとして、バランス感覚を重視しなければいけないこともある。
今年は、オープナー(ショート・スターター、栗山流オープナー)で投手コーチとコンセンサスを取ることが非常に難しい部分はあったと思う。
しかしどこまで、
監督の意向が(を)
①コーチに伝わっていたか?
②選手にコーチが伝えることが出来ていたか?
③選手が何を感じてプレーしていたか?
④ファンが結果を観てどう受け取ったか?
僕は今年、ここに疑問に感じている。
バランス感覚とは無難に行くこととも少し違う。
しかし、①~④のバランスを勝っていきながら保っていく必要があると思う。
最近、栗山監督への批判の記事が紙面を踊るようになり、身近にも手のひらを返したように栗山監督をディスる人が増えた。
マスコミはお仕事だし、個人の意見をどうするとか言う問題では無く、
尊敬する人が批判にさらされている時に何を思うか。
やっぱり、
栗山監督の野球観が今年は結果に結びつかなかったなと言う感想は禁じ得ない。
こう言う時と言うのは、
どこかで意思の疎通が間違っている
ことが多い。
その意思の疎通がどこで食い違ったのか?
それを修正する方法はあるのか?
監督とコーチは特にそこの食い違いを放置したまま、前に進まないで欲しいものだ。
映画も野球も、感動を与えられる一つの作品であることは共通している。
多くの人が携わり、大きな作品として仕上げていく。
結果がどうであれ、
映画監督の世界観が、
スクリーンを通して理解されるか
野球の監督で言えば、
フィールドで選手がその野球観を体現できるか
久しぶりに映画を観てそんなことを考えながらの更新でした。
次はこれを観たいなと予告編に洗脳されて帰ってきました(笑)
多部ちゃん大好きなんで…