野球観術

野球や組織論はいつだって愛情から始まる

田中賢介と言う存在

昨日、田中賢介選手の引退試合・セレモニーが行われた。

 

昨日は仕事があって、ライブでは見ることはできなかったが、帰宅後ビール(この日は賢介お疲れ様と言うことで発泡酒では無くビール(笑))を飲みながら、録画を観て涙する一夜を過ごした。

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(このシーンが一番、涙が止まらなかった・・・) 

 

僕がファイターズのファンになった時(東京時代)には田中幸雄選手と言う絶対的なショートが居た。

その田中幸雄のショートの後継者として、1999年ドラフト2位で東福岡高校から入団した。

 

僕は子供ながらに、後継者と言うからには、

「幸雄さんと同じようにたくさんホームランを打ってくれる選手なんだ!」

打席は左で、グリップをお腹のあたりまで下げたバッティングフォームで、

「面白い打ち方をする選手だな!」

と思っていた。

 

親にせがんで、東京ドームへ観戦に行って賢介が出場する試合では

“賢介コール♪”をするのがすごく楽しみだった。

 

実際には、外野フライを簡単に打ち上げてしまい、あまり打つ記憶は無く。

「本当に幸雄さんみたいになるのかなぁ…」

そんな印象だった。

 

実際には幸雄さんみたいでは無く、

唯一無二の田中賢介と言う選手になった。

 

僕が田中賢介と言う選手を想う時、2つのエピソードが頭に思い浮かぶ。

 

一つ目は、

彼はショートとして入団してきたが、送球難を抱えていた。

それを克服しようと必死に練習をしたと言う。

しかし、送球が不安で、後ろのポケットに忍ばせているロジンバック(滑り止めの粉)を常に触っている状態で、手がただれてしまったと言う…

これを聞いた時、「本当に心の強い選手なんだな」

と、高校生だった僕にはものすごく衝撃だったのを覚えている。

 

彼のそんな強い信念と、当時のヒルマン監督が守備の負担を減らし打撃を生かすため、賢介を入り口として何試合かレフトで起用した。

1軍での打席数を積み重ね、レギュラーとしての経験を得ながら、送球難を克服し代名詞であるセカンドのポジションを勝ち取った。

引退会見での「2006年の日本一が最も印象に残っている」と言うコメントにはそんな辛さを乗り越えた充実感があったのかもしれない。

 

二つ目は

彼は頑固者だと言うエピソードが有名だが、こんな話がある。

白井一幸さんが2軍監督時代に

 

ある日(田中賢介に)「全力でプレーしろ!」と言い続けてきたときに、突然、彼がわたしの目をまっすぐ見据えながら「全力の意味はなんですか?と尋ねてきました。

(白井さんは)

考えもしなかった質問に思わず「全力の意味なんてねえよ!全力は全力だ!」怒鳴って終わらせてしまったことをおぼえています。

(略)

周りのコーチから「白井さん、いつか賢介に刺されますよ」

と言われるくらいわたし(白井さん)と賢介の関係性は冷えきっていました。

北海道日本ハムファイターズ流一流の組織であり続ける3つの原則』より

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このエピソードは白井さんが指導者としての信念を振り返る時、田中賢介への指導がキーポイントになったと言う一例として記述されている部分を取り上げたが、僕はこんな一幕があったなんて夢にも思わなかった。

 

指導者を困らせる程の頑固者であると同時に、納得できないことについては、監督であろうと正面から向き合っていく選手としての信念みたいなものを感じた。

 

(そんな白井さんと賢介の関係性にあっても白井さんは)

グラウンドに出てくる彼(賢介)の表情を見て「俺と顔を合わせたくないんだろうな」と感じつつも、遠くで練習している場所に自ら近づいて行って、繰り返し同じことを毎日伝えるのです。

「白井さん、なんでそこまでやるんですか?」

ある日、見かねたコーチから言われたことがあります。

「彼は必ずできる人間なんだ。でも今のままだとその他大勢の普通の選手になってしまう。彼は球界を代表する、ファイターズを牽引するプレイヤーになるんだ。今関わらないでいつ関わるんだ!」

こう返したことを覚えています。

理屈では説明がつかないことです。ただ、田中賢介というすばらしい才能との出会いのよって、指導者としての確信めいたものが私の中に生まれていました。

 

田中賢介と言う野球選手としての人間性・才能・努力する姿を凝縮したようなエピソードではないかなと僕は思う。

 

野球選手に限らず、一般の社会で才能があっても、指導者に迎合し自らその才能を潰してしまうことは往々にしてある。

僕個人的な意見としては、指導者側に問題があるケースがほとんどだと思っているが、賢介のように、自分の考えをしっかりぶつけること、仮に指導者(上司)とのソリが合わなくても、自分を信じて努力を続けることは、決して簡単なことでは無いと思うのだ。

 

そんな頑固者の信念は開花し

2006年:125試合に出場

初の規定打席到達で

打率.301 犠打34

と2番打者として日本一に貢献した。

そして

ベストナイン:6回

二塁手部門:2006年、2007年、2009年、2010年、2012年、2015年)

ゴールデングラブ賞:5回 (二塁手部門:2006年 - 2010年)

と球界を代表する二塁手としてファイターズに大きく貢献した。

 

賢介がセカンドのレギュラーになってから、彼がセカンドに居ることが当たり前になっていた。

メジャー移籍しセカンドがポッカリ空いてしまった時にその存在感の大きさを改めて感じた。

ファイターズの二遊間の歴史は

田中幸(遊)-金子誠(二)

金子誠(遊)-田中賢(二)

中島卓(遊)-田中賢(二)

(個人的には)この3パターンが本当に定着した二遊間だったと言える。

間に奈良原や木元、西川や中島卓がセカンドに入ることはあったが、レギュラーと言う感じでは無かった。

セカンドがしっかり決まってこそ、ファイターズは優勝してきた。

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そう考えると田中賢介の功績と言うのは、派手では無いが偉大なものがある。

最後は、チームのゼロ封を打ち破るタイムリーヒット、1499本目のヒットで最終打席を終えた。

最後の最後まで賢介に頼る結果になってしまったが、本当に鳥肌が立った。

 

涙を堪えきれない中の打席で、最高の技術をファンに見せてくれた。

 

なにより、野球選手としての強さ、お父さんとしての優しさが詰まった引退試合だったなと、引退会見、最後の4打席、セレモニーでのあいさつ、を見て涙ながらにそう思った。

 

白井さんとの関係性やレギュラーとして第一線で活躍した経験は、指導者として望まれる存在だ。

しばらくは、パパとして子供たちと過ごす優しい時間を大切にしながら、きっとあの鋭い眼光の先に目指すものに向かって進んでいくに違いない。

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またファイターズと言うチームで会えるのを楽しみにしている。

 

東京時代からの選手が居なくなってしまうのは本当に寂しいが、

ファイターズと言うチームに居てくれて、ありがとうございました。

田中賢介選手、20年間本当にお疲れ様でした。

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 (賢介と言えばこの送球スタイル)

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(この笑顔は今年のチームには欠かせなかった)

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(1499本を放ち進化を続けた打撃フォーム)