(祝)ブログ1周年!!
今日10月5日は、このブログを始めてちょうど1年!
“野球観術”の1歳の誕生日になります。イェイ♬
飽きっぽい自分が1年間続けることができたのは、読んで頂ける方がいるからこそです。
昨年の今頃に比べると(昨年対比)、
閲覧者数も10倍近くになり、励みになっています。
本当にありがとうございます。
もちろん、何かの専門家では無い自分がいろんなことをもっともらしく、好き勝手に書いているだけなので、恥ずかしい限りですが、少しでも楽しいと感じて頂けることを願って止みません。
このブログを書いていて、自分の特技として気付いたことが!
それは様々なことを
野球に例えたり、野球と対比したり
して話が出来ると言うこと。
今日は、1年前には気付くことが出来なかったことを少しだけ
去年の今頃、こんな会話があった。
甲:「私は自由に生きて行きたいんだよね!」
自分:「じゃあ回りの人にグリーンライトを出してもらえるようにしなきゃね!」
甲:「グリーンライト?」
自分:「ファイターズの西川のような選手(走者)は、サインが出なくてもいつでも走って良いよと言う決まり事みたいなもの。自由に走ってもいいけど、アウトセーフに全ての責任があるってことだよ。どこまでも走っていってしまってはダメだよ(笑)」
どうも甲さんは、このやり取りを根に持たれたようで、ずいぶんと周りにそのことを悪く言っていたそうで、
決して耳障りの良い表現では無かったのでしょう。
ただこの出来事も、自分にはいろんなことを考えさせられる一つの出来事ではあった。
僕が通っていた中学校は“自由な校風”と言うのを全面に押し出していて、
校長を始め、「自由には責任が伴う」と言うことを、口を揃えて話していた記憶がある。
僕は中学校卒業後も、この自由と言う言葉をこれ以上に噛み砕いて説明をしてくれる環境に出会わなかった。むしろ気付けなかっただけかもしれない…
「自由には責任が伴う」
この表現だけが一人歩きし、何かの標語のように、なんとなく分かった気持ちでこの年齢まで来てしまったのが正直なところだ。
しかし、僕はそのことを学ばなければならない環境に身を置くことになった。
33歳ともなれば、会社ではそれなりの役職につき、結婚して子供が居る友人ばかりだ。
僕はその路線からは大きく外れて生きている。
「会社に縛られて、自由なんてない」
「結婚すると自由が無くなる」
僕もそう思っているし、友人とのお酒の席ではそんな話が過半数を占める。
では、会社にも(正社員として)属さない、結婚もせず一人気ままに生きているから、自由かと言えば決してそんなことも無い。
会社員、まして同年代の友人に比べれば、お金にも多少は不自由もするし、(一人で居ると言う)寂しい気持ちに縛られると言う不自由さもある。
果たして、この自由の正体とはなんなのか・・・?
自由と言う言葉はもともと仏教の言葉だそうで、
自らに由る
と書く。
由るとは、寄る・拠ると同じ語源で、起因する・よりどころとすると言う意味だ。
自らに由る=自らをよりどころにする
何かに縛られているのは、自らに由らないから、不自由なのだと・・・
実際にはどういう事か・・・
これはあくまでも推測だが、頼ると言う言葉も、
もともとは“他由る”と言う表現だったのはないだろうか・・・
会社を辞めたから自由になれるのか?
離婚したから自由になれるのか?
恥ずかしながら僕が一番感じることだが、会社に依存している人は、僕のようにフリーターになっても不自由なまま、また別の不自由が出てくる。
結婚の経験は無いが、嫁や旦那のせいで不自由だと感じて離婚すると、また別の不自由が出てくるのだろう。
僕のように自由の本当の意味を理解せず、自由を求めてきた人は、このことを繰り返すのだろうと思う。
自らに由る=全部こっちの責任
に繋がってくる。
これが最近、“全部こっちの責任”の意味が分かり始めてきた要因の一つでもある。
人にはそれぞれ、いろんな呪縛がある。
よく言われるのがトラウマとか、弱さが故に身についてしまった悪習・・・
実際には、会社や結婚生活に縛られているのでは無く、
そう言った
トラウマや悪習に自分の中で縛られているだけ
なのだとハッとさせられた。
これから脱すること、解放されること、が一つ一つ自由になっていくこと
なんだろうと思う。
栗山監督が退任するまでの1年。
自分自身が
自由になる=稚心を去る=全部こっちの責任
と言うことが1本の線に繋がるように、
そして、
野球を面白く伝え、いろんなことを野球に例え、
一人でも多くの方に、何かが伝わるように、
更新を続けて行きたいと思います。
これからも“野球観術”をよろしくお願いします。