一通の手紙
「人間は生まれてくるとき、一通の手紙を持って生まれてくる。」
しかし、その手紙を一度も開けずに、自分の使命みたいなものに気付かないまま、死んでしまう人が多いと言う。
これは仏教的な話ではあるが、このことを栗山監督の『稚心を去る』でも引用している。
実は僕は“根っからの人間嫌い”で生まれてきた。
良いことも悪いことも経験しながら、人を信じることを覚えてきたタイプで、表面的にはどこか冷めた目で物事を見ていて、心の奥底では人を信じたいと願っている、本当に“天邪鬼”な人間なのだ。
このブログのサブタイトルが“野球や組織論はいつだって愛情から始まる”なのは冷めた目で野球や組織を見ていても、結局最後は愛情なんだと強く感じることが多いからなのだ。
僕が「野球は人生そのものだ!」と言うと笑う人が居たが
例えば
みなさんは送りバントを英訳すると、どう言う表記をするか耳にしたことがあるだろうか?
※僕自身、全く英語は分かりません…
送りバント=a sacrifice bunt
sacrifice とは犠牲・生贄(いけにえ)
と言う意味だ。
生贄なんて仰々しい言葉が出てきたが、野球と言うスポーツは犠牲になる事をしっかり評価するスポーツなのだ。
送りバント=犠打は打数にカウントされない。
要は自らが犠牲になる意思を示し行った打席結果は打率を下げる要素から排除しているのだ。
通常の社会の常識からすれば、その送りバント自体が得点に繋がらなければ、全く意味の無い行為として評価されてしまう。
それでも野球のルールは得点の有無に関わらず、打数にカウントせず、犠打として記録に残る。
最近は、球団によっては打数にカウントされてしまう進塁打を評価の対象とするチームもある。
僕自身は決して、ソフトバンクの柳田や西武の山川のようなスポットライトを浴びるようなタイプの人間(=選手)ではない。
だから犠牲バントや進塁打で、本来スポットライトを浴びる人を輝かせる存在だと思っている。
Sacrificeの概念が無ければ自分自身の存在意義は無いのではないかと思って生きている程だ。
日本ハムと言うチームには様々な選手がいる。
僕が好きなエピソードとしてこんな話がある。
中島卓也が高卒で入ってきた1年目に、よくファームの試合を観に行っていた。そんな彼はピッチングマシーンのボールですら、うまくボールを前に飛ばすことのできない選手だった。
そこから中島が1軍で活躍するようになったころ(2013年)に
栗山監督が当時の白井コーチに「卓がファールを打ったら褒めてやってくれ!」と言うお願いをしていたらしい。
今やファール打ちの名人で“カットの中島”と言う代名詞にもなっているが、栗山監督なりに中島の存在意義を見出していたと思うと、鳥肌の立つようなやり取りだなと感動してしまった。
話は戻るが、彼のファール打ちも sacrifice の一部で仮にアウトになっても、相手投手の球数を稼ぐと言う意味では自己犠牲になると思う。
日本ハムはそういう選手を評価するチームで非常に共感する部分は多い。
僕自身の話になるが、
僕が生まれてくるときにもらってきた一通の手紙は
“目に見えない犠牲”をしっかり担いなさい。
と感じるようになった。
大きなお金や権威を手にすることはできないかもしれないけど、組織には必ずと言って良いほどそう言う存在がいる。
多くの人が評価してくれなくても、1人でも見てくれている人がいれば良い。
「そんな存在になりなさい!」と言われている気がするし、自分自身もこれまでの人生でもそんな役割を演じている時が一番自分らしかったし、うまく行っていた。
もちろん、キラキラ輝いて目立っている人、多くのお金を手にしている人が羨ましくなっていろんなことにチャレンジ(手を出)して来たけど、結局うまく行かなかった。
中島卓が毎打席本塁打を狙ったりすれば、彼らしさが消えてしまう。
自分がしてきたことは、そんなことだったのだと少し反省している。
禅の教えに
『明珠在掌(めいじゅ たなごころに あり』
と言うものがある。
自分の求める美しいモノ(こと)は自分の掌(てのひら)の中に在って、自分の外側に求めるものでは無いと言う意味だ。
最近は悩みを抱える人が増えていて、僕自身もいろんな相談をしたり、相談を受けたりする中でいろんな言葉に出会う。
そこで出会った大切な言葉があったので紹介をしたいと思ったのと同時に、
自分が持っているものを大切にして前に進んでいきたい!
そこにはやっぱり愛情が不可欠なんだと言うことも改めて学んだ。
そんな思いでこれからもブログで、自分らしく野球の魅力を伝えて行きたいと思うし、一通の手紙の内容をしっかり心に刻んでいきたいと思う。
自分中心の話になってしまったが、最近いろいろ感じることがあったので、著述することとする。