大島康徳さんありがとう
本当に久しぶりの更新です。
昨日、中日・日本ハムで選手として活躍され、日本ハムファイターズで3年間監督をされた大島康徳さんが亡くなられたと報じられた。
ご冥福をお祈りいたします。
僕は大島さんの現役時代を知らず、2000年~2002年の監督時代に知ることになる。
僕は当時、中学2年生~高校1年生で、受験や部活が忙しく、ファイターズの試合をゆっくり観る機会は、あんまり無かった。
正直言えば、前任の上田監督の時に優勝一歩手前まで行っていて、大島監督の時には下位に沈んでいたから、監督としての印象は、子供ながらに良く無かった。
こうやって大人になって、いろんなことが分かってくると、感情をむき出しにして、勝利への執念を見せる、素晴らしい監督だったなと今となっては思う。
大島監督時代の想いでは2つ
一つは2000年6月の対ロッテ戦での出来事。
これは東京ドームでのゲームで、ローカル放送を生で観ていた記憶がある。
詳細はこちら↓
10‐4とファイターズがリードした7回表にロッテ大塚明が放ったポール際の大飛球がホームランの判定。
VTRを見ると明らかなファールで、大島監督は大激怒してベンチを飛び出し21分間に及ぶ猛抗議。
その後のニュース番組を見て、大島監督が急性胃腸炎で救急車で病院へ運ばれたことを知る。
子供ながらに感情の起伏が激しい監督だったから、怖いなとは思っていたが、勝ちにこだわる姿勢、そして翌日も周囲の人の反対を押し切って采配を振るった姿は、今のファイターズに必要なことだなとも感じる。
2つ目は田中賢介選手の東京ドームでの最終ゲーム。
花束の贈呈に、闘病中の大島さんが来られていて、田中賢介がすごく嬉しそうにしていたこと。
実際に僕が撮影したもの
田中賢介は北海道移転後のファイターズ黄金期を支えた二塁者なのはご存じの通り。
試合前の練習も真剣だよね←
1999年のドラフトで西武・中日との競合クジを引き当てたのが当時の大島監督で、同性の田中幸雄の後継者としてドラフト2位で東福岡高校から入団した期待の遊撃手だった。
守備は当時の田中幸雄や奈良原浩とは比べ物にならず、打撃も非力で、簡単に内野にポップフライを上げてしまう印象だった。
話は少し逸れるが、僕が配信をしているYouTubeチャンネルで
▼Yuチャンネル▼
「500打席問題」
と言うものがある。
簡単に言うと、
打者が1軍の投手のボールを打てるように(レギュラーに)なるのに必要な打席数が平均で500打席と言うデータ
があるのだが、去年セ・リーグで首位打者を取った佐野恵太やオオタニサン(大谷翔平)にも当てはまっている数字なのだ。
興味がある方は、主力として現在活躍している選手が活躍する前年までに1軍での打席数がどれくらいなのかを数えて見ると面白いと思う。
話を戻そう。
ここからは北海道移転後のファンの方にも所縁のある話になって来ると思う。
田中賢介が活躍した2006年はファイターズが念願の日本一になった年でもある。
彼の2006年までの彼の打席数と成績をまとめてみた。
活躍する前年までの打席数が485打席。
そのうち298打席が大島監督の在任期間のもので、いかに期待されていたかが分かる。
この2001・2002年の数字を見るとかなり我慢をして使っていたかが分かるし、勝利にこだわりながらも、人情味あふれる監督で、
「田中賢介と言う選手をなんとか大成させるんだ」
と言うのが伝わってくる。
指導者としては、その意思を白井一幸さんが引き継ぎ、才能が開花。
2006年以降の田中賢介の成績は言うまでも無い。
人間の縁と言うのはどこでどうなるか分からないなと思う。
決して好印象で無かった大島監督に対しても、大人になり、ファイターズの野球と向き合うようになって、印象ががらりと変わった。
そりゃ、昭和~平成初期の職人気質のプロ野球選手だから、令和の世にはそぐわないかもしれない(退場もいっぱいしてるしね)けど、今のファイターズの野球を見て、大島さんはどう思うだろうか?
「バカヤロー!下を向くな!!全力で野球をやって勝つんだよ!!!」
とお父さんの小言が僕には聞こえてくる。
天国から優しく、時には厳しく
ファイターズを見守って下さい。
ありがとう大島監督!