稚心を去る②~子どもっぽい心を捨てる~
前回のブログの続きになるが
僕がこの本を手にした時は、物事が比較的うまく行っていて楽しい時間だった。
もちろん、いつもヒントや答えを探しているからこの本を手にした訳だが、そんな時には大切なことは入って来ないものだなと痛いほど感じる。
この本を読んでもらえればと思うが、稚心とは「子供っぽい心」のことで、幕末に生きた橋本左内と言う武士がわずか15歳と言う年齢で著書に書き記したものらしい。
『稚心を去る』とは
「子どもっぽい心を捨てなければ何をやっても決して上達しない」と言う意味らしい。
栗山監督もこの章で
「成長を妨げているのは、“子どもっぽい心”要するに“わがまま”であるケースが多い。みんな心の中に“大人の心”と“子供っぽい心”が共存していて、うまくいかないと、すぐに、“子どもっぽい心”が出てきて、人を“わがまま”にさせる。そして、余計なことまで考えて、いつもイライラしている。」
と述べている。
これを読み返したとき、まさに僕のことだなと…
僕の場合にはイライラすると言うより、余計なことを考えて恐怖感を覚えてしまうことだ。
これも“わがまま”の一種なのだろう。
どうしても自分が可愛くなってしまう。そんな子供っぽさが結局、前回記述したが、幻覚や亡霊を生み出し、大切なモノを持って行ってしまった。
前回のブログのサブタイトルにした ~心身脱落~ の欲を捨てると言うことと“子どもっぽい心”を捨てることは同じなのではないかと感じた。
結局、過度な欲は“わがまま”でしかないのかもしれない。
それを勝ち取ることが必要な時もあるが、それで幻覚や亡霊が出てきて恐怖感に苛まれてしまうのであれば、元も子も無い。
やっぱりそう言うものなのかもしれない。
前述のブログで石井一成の話をしたが、彼にも同じことが言えるのかもしれない。
彼が“子どもっぽい”かは別として、やっぱりプロ野球選手である以上、1軍で生き残りレギュラーを勝ち取らなければ、成功したとは言えない。
その中で、自分のプレーをするプレッシャーは並大抵の事ではないと思う。
でも彼は、高校時代に強豪校で甲子園に出場し、大学ではショートのレギュラーだった。
自信は必ずあったはず。1年目はそこそこやれたが2年目にうまく行かなかった。
うまく行かなかった時に“子供っぽい心”が出てきて、「失敗したくない、何か言われたくない」と言う“わがまま”が出てくる。
なんとなくそんな感じがする。
僕は、彼が属している組織の上司が栗山監督であることが羨ましい。
きっと、石井自身がどんな気持ちでプレーしているかは、一番わかってくれていると思う。
僕は憶測でしかモノを言わないが、栗山監督は違う。
そう言う上司なのだから、自信を持ってプレーして欲しい。
先発で使ってもらって、見逃し三振を2つもすることが栗山監督にとって辛いことであることは想像に難くない。そう言う想いが大人になることなのかなと“他人の事”なら思える。
栗山監督はこうも述べている。
「プロ野球選手を見ていると、プライドが邪魔して、恥ずかしさに耐えられなくなってイライラしたり、無駄に抗ったりしているように感じることがある。人前で恥ずかしい思いをする。でも、やるんだ、みたいな選手の方がやっぱり伸びていく。恥に耐えられないのは“子どもっぽい心”が顔を覗かせてしまって、それを受け止めきれないからなのだと思う。」
プロ野球選手では無いが、僕自身、失敗したくないからいつも行動が遅い。
それは恥をかきたくないからと同義だ。
今回は失ったモノが大きいから、そう言うモノと向き合えるようになったが、今度行動に移す時また必ず“子どもっぽい心”が出てくると思う…
個人的なことはこれ以上割愛するが、やっぱり大切なことはいつも何かと繋がっていて、見失った瞬間に自分に返ってくる。
これだけ大切なことが分かっている監督が指揮を執っているファイターズでも、常に勝つことが難しいことを考えると、プロ野球の世界と言うのは厳しい。
交流戦まであと3週間ほどある。
そこまでに故障者がみんな戻ってくる。
平成最後の更新で、“形”が見えないと言う内容を書いた。
栗山監督も数日後のコメントで同じようなことを言っていて笑ってしまったが、故障者が戻ってきて“形”を作って交流戦で一気に抜け出して欲しいところだ。
その“形”の中に石井一成が一つのピースとして入っていてくれることを願って今回の更新とする。